傾かざる赫の天秤 外伝 【生まれつき命のない子供たち】


 ──時は3384年。
 ガドに対して『その話』を持ちかけたのは、彼が孤児院を出た頃からの知り合いの男だった。学も後ろ盾もない彼の就職の面倒を見てくれたこともあり、ガドはその男をそれなりに信頼していた。だから、『その話』も深く考えず受け入れたのだ。

「ガド、君はレーヴァテイルの調教が上手いと評判だそうじゃないか。そんな君に、是非任せたい話が有るんだ。
 最近、主人の急逝に伴って路頭に迷ったレーヴァテイルが居るんだが……君、そいつの面倒を見てみないかい?」
 

 ガド・クリファ、男性、34歳。職業は国営研究所の警備員、趣味は料理と煙草。それが彼の輪郭であり、同時に彼が纏う鎧でもあった。孤児、レーヴァテイルハーフ、自傷癖、エトセトラ──そういった消えないスティグマを、世間から隠すための。
 馬鹿でかい体格に見合った大きな手には、今は小さな女の子の手が握り込まれている。つい先ほど引き取ってきて、これからしばらく共に暮らすことになる少女。慈善団体・ホークスクラブの事業所に一時保護されていた彼女は、不安や恐怖を表明することもなく、ただガドに付いて来ていた。

「……俺の名はガドという。聞いているかもしれないが」
「…………」
「君の名前は? 差し支えなければ、教えて欲しい」
「…………」

 問いに、子供は首をゆっくりと横に振った。『答えたくない』か『わからない』なのか。どちらにせよ、ガドは困ってしまう。困ったまま、どうにか言葉を探す。

「えーっと……しばらく、俺が君の面倒を見ることになった。つまり、君には俺の部屋で一緒に暮らしてもらうことになる。
 まぁ、アパートの一室だから、広くはないが……少なくとも雨露はしのげるし、飯も出す。不自由はさせないように努力する。
 あー、だから……少しの間、よろしくな」

 しどろもどろになりながら、どうにか今の状況とこれからの境遇について説明する。だが、やはり返答はなかった。
 

 ガドの自宅は、研究区に有る職員向けアパートの一室である。安く狭いワンルームには、重ったるい煙草の臭いが充満していた。
 最低限の家具だけが並べられた部屋の中は、まるで人が住んでいないかのように整頓されている。煙草の臭いさえなければ、家具付きの空室だと見紛うかもしれない。

「ここが俺の家で、トイレと風呂はこの扉。キッチンには危ないから近づかないように。寝る時は──あー、追加のベッド買うの忘れてたな」
「…………」
「まぁいいや、今日から君はこのベッドで寝てくれ。ちょっと臭うかもしれないが……何か質問はあるか?」

 子供の手を引いて、彼女をベッドの縁に座らせる。座った子供の前で膝を折り、ガドは視線の高さを合わせた。大きな青色の瞳に、ようやくガドの陰鬱な顔が映る。

「今日、は……」
「……うん、ゆっくりでいいから」
「おじ、ちゃんは……どこで、ねるの」
「ん? ああ、それは心配ない。今日は俺は夜勤の予定だから、気にしなくて大丈夫だ」

 ゆっくりと、閉じた心にも届くよう話す。今度は、少女はかすかにだが頷いた。ガドは自分のいかつい顔の筋肉をこねくり回して、優しげな微笑を作り上げる。

「少し待っていられるか? あー、子供向けの本でも買っておけばよかったな」
「……はい」
「オーケイ、じゃあ飯を用意してくるからな。困ったことがあったら言ってくれ」

 ガドは少女の掌を一度ぎゅっと握りしめてから、おもむろに立ち上がってキッチンに向かった。まだ夕飯には早い時間だが、夜勤の日にはこれくらいがちょうどいい。
 残っている食材を確認して、賞味期限の迫っているものから取り出して、有り合わせの料理を2人前こしらえる。今日の献立は、適当な野菜炒めとインスタントスープ、それからトースターで焼いた食パンと目玉焼きだ。
 1人の時であれば、出来上がったらそのままキッチンで食べてしまうのが常であったが、今は子供が居る。真新しい皿に取り分けて、つい昨日買ったばかりのローテーブルに運んだ。

「はい、出来たよ。熱いから気をつけて」
「……これが、わたしのごはん?」
「ああ。野菜は苦手だったか?」
「いいえ……」
「そうか? まぁ、今回は適当にやったが、苦手な食材が有れば言うようにな。いただきます」

 ガドはフォークを手に取り、手早く食べていく。それを真似るように、少女もゆっくりとフォークを動かし始める。
 ただ、成人男性を基準とした量は、女の子には少し多すぎたのかもしれない。もしくは、これまであまり食べてこなかった故に胃袋が萎縮しているのか。少女は半分以上残してフォークを置いた。

「もう満腹か?」
「……はい」
「そうか。じゃあ、残りは俺が食べるよ。あー、でも、俺が仕事に行ってる間腹が減るかもしれないよな。
 このトーストはラップして冷蔵庫に入れておく。何か食べたくなったら自由に食べてくれ。一応、バターがあったはずだから、わかりやすい所に出しておくな」

 残った野菜炒めと卵焼きを吸い込むように腹に放り込み、スープもがぶりと飲み干して、残ったトーストを持っていく。その様子を、少女はぽやんとした表情で眺めていた。
 さて、そろそろ出勤の時間だ。ガドは足元までを覆うコートを身に着け、赤い目を隠すように深く帽子をかぶる。ハンカチや財布などを1つのバッグにまとめて入れて、窓の戸締りを確認しつつ、テーブルの前でぼんやり座り込む少女に、留守番中の注意事項を言って聞かせた。

「風呂は湧いてないけど、シャワーならいつでも使えるから……あと、一応パジャマとか下着とかも用意はしておいたけど、サイズが合っていないかもしれない。
 キッチンには刃物とか色々有るから、冷蔵庫とトースター、あと流し以外にはあまり触らないようにな。
 本とか、興味があれば自由に読んでも構わない。テレモも、まぁ放送を聞くぶんには好きにしてくれ。
 あー、外には出ないようにな、安全が保証出来ない。誰か訪問者が来ても無視するように。
 帰りは朝頃になると思う。ちゃんと待っててくれな」

 少女は曖昧な表情のまま頷いた。話したことをどれだけ把握してくれたかわからないが、この分なら危ないことはしないでいてくれるだろう。

「慌ただしくなってすまないな。明日は少しゆっくり出来ると思うから、これからの話とかをしておこうな」

 最後にそう付け加えて、ガドは家を出る。しっかりと鍵を閉めて、帰路につく研究員たちの流れに逆らうように、今日の仕事へと向かった。
 

 つまらない仕事を終えて、早朝の静かで冷たい空気の中家路を辿る。国家機密をも守る警備員といえど、常の職務に危険は少ない。決められた持ち場に佇んで凄むか、これまた決められたルートを辿って何もないことを確認するか。──時には、不審者と斬り結んだりすることもあるが。
 何にせよ、今日はイレギュラーもない平凡な一夜だった。大きなあくびを吐き出しながら、ガドはアパートの自室に帰った。

「あー……まぶし」

 扉を開けると、カーテンが開いたままの窓から鋭い東日が差し込んでいた。ぎゅっと目を窄めて、のそのそと窓に近寄って、カーテンをピシャリと閉める。薄暗くなった室内を眺めて──ベッドの上で丸まった少女の姿を見て、昨日のことを思い出した。
 ガドはベッドに近寄って、子供が眠っていることを確認する。規則正しい寝息。用意しておいたパジャマに着替えてくれたようだが、やはりサイズが大きすぎたようだ。後で裾を上げてやるか、と考える。
 蹴り除けてしまったらしい掛け布団を直して、まだ眠りが深いらしいことを読み取る。無理に起こすこともないし、さっさと家事を終わらせることにした。

 コートを脱いでハンガーにかけて、帽子も一緒にかけておく。それから自分の着替えを用意して、ユニットバスの清掃がてらシャワーを浴びる。ここに鏡は無いが、服を脱げば四肢の傷は嫌でも見えてしまう。──何かの皮膚病のように両腕を覆う、大量のミミズ腫れ。
 自傷行為は、気がついた時には完全に自分の一部になっていた。こんなことをしても何にもならない、わかっているのに、痛みによる思考の麻痺が心地よくて、自らを罰することで何か許されたような気になる気がして、今日に至るまで止められていない。煙草を覚えてからは、多少頻度は減ったが。
 せめてあの子供が居る間は自傷は止めよう、と固く決心する。……それが実際に履行されるかは別として。
 身を清め終え、新しい部屋着に着替えると、次はキッチンに向かう。昨日残したままの洗い物に手をかけようとして、ふと冷蔵庫の中を確かめた。……昨日残していたトーストは消えて、代わりにそれを乗せていた皿が、遠慮がちに流しに積まれていた。

(良かった)

 1人でも食事をとることが出来たようだ。バターは使われていなかったから、もしかしたら開け方がわからなかったのかもしれない。今度は切った状態で別のケースに入れておこうか、と考える。
 少しだけ軽くなった気分で、今度こそ洗い物に取り掛かる。常より多い量の皿を洗っていると、水の音に紛れてぺたぺたという足音が聞こえてきた。キリの良い所で一旦蛇口を閉め、彼は振り向く。

「おはよう、ただいま。昨夜は寒くなかったか?」
「……はい」
「それは良かった。今、朝飯を用意するから、少し待っててな」

 しかし、少女がガドとの距離を変えることはなかった。彼女はじっと、ガドの作業を眺めている。沈黙する子供の訴えんとすることは、一体何なのだろうか。
 年少者の扱いは、出来るが得意というわけではない。孤児院に入った時には既に大きかったから、他のみなしごたちの面倒を見てきた。その経験はあるが、恐らく心に大きな傷を負った子供の相手は、正直手に余る。
 考えながら、手を動かす。洗い物を済ませ、ガドは冷蔵庫から残りのパンを取り出して、トースターにかけた。他のものを用意する気力はなかったので、洗いたての皿を二枚拭いて、そこにバターを切り分けておく。
 焼けたトーストを皿に乗せて、まだ佇んでいる子供に振り向き、片方を差し出してみせる。

「待ちきれなかった? 簡単なやつですまないが、今朝はこれで」
「…………」

 子供は両手で皿を受け取り、ローテーブルの方へ歩いていった。だが、すぐに食べ始めるでもなく、どうやらガドのことを待っているようだ。

(もしかして、手伝いがしたかったのか?)

 そこまで積極的な欲求ではなく、単に染み付いた習慣なのかもしれないが、一連の行動の答としてもっともありえそうだった。ガドはコップ二つとミルクを追加で抱えてテーブルに向かい、子供の対面に座り込んだ。

「ミルクは飲めるか?」

 少しの間の後、首肯。ガドはコップにミルクを注いで、片方を子供の方に差し出した。

「よし、いただきます。食べながらで良いから、少し聞いてくれ。
 俺はこの後少し寝るが……起きたら、今日は時間が有るから、君の生活に必要なものを買い足しに行こうと思う。
 よければ一緒に来て欲しい。服とか、ちゃんと試着しながら決めた方が良いしな」
「わかり、ました……」
「それが終わったら、今日も夜勤だから、また今夜も1人で過ごしてもらうことになるが……大丈夫か?
 あんまりにも不安なら、ちょっと融通を利かしてもらうことはできる」

 それに対しては、何かを恐れるような間の後、小さく首を横に振ることで答えられた。言葉はなく、どちらともとれそうな否定の態度を、今は『1人でも平気だ』という方にとることにする。

「じゃあ、夜の留守番は頼む。今日はサンドイッチでも作っておくか」

 小さく頷く子供に、ガドはまた笑みを浮かべてみせた。しかし、視線が合うことは無い。
 怖がられている、のだと思う。無理もない、信頼関係がまだ築けていない以上、ガドは大柄で力の強い理解不能な男だ。恐怖させるのは本意ではないから、出来るだけたくさん内心を語ることで、理解を得ようとするが。
 そうこう考えている間に、自分の分のトーストは食べ終えてしまった。残ったミルクを流し込み、大きくあくびをする。

「じゃ、俺は少し寝るから……ゆっくり食べてていいぞ」
「……はい」

 ガドはベッドに腰掛け、壁に背を凭れさせた。少し下を向いて目を閉じて、夢を見ないよう思考を殺していく。意識は明瞭なまま、自我はとろけて暗闇となる──。
 

 呼吸を数え、きっかり三時間後、思考が復帰する。瞼を上げれば、カーテン越しにも眩しい真昼の日光が赤の眼を刺した。立ち上がって伸びをすると、天井に腕が当たる。

「いって……」

 良い加減に学習すべきだと思うが、何度天井を殴っても寝起きのボケは直らない。じんじんと痛む拳を振りながら、目を閉じる前に考えていたことを思い出す。
 子供の姿を探して、彼女がローテーブルの前で膝を抱えているのを見つける。皿とコップは片付けられており、キッチンの方を見れば洗われて水切り籠に入れられていた。

「……食器の片付けをしてくれたのか?」

 小さく頷く子供に、ガドは膝を折って出来るだけ視線を合わせ、内心こわごわとしながら彼女の髪を撫でた。小さな頭が揺れないように、金糸の髪が引き千切れないように。

「ありがとう。お礼に、何か君の好きなものでも買わないとな……
 さて、これから着替えをして、買い物に出かけようと思う。替えの服を出すからな、君も着替えてくれ」
「わかりました……」
「よし。服と、新しい家具と、それから食材だな……君も、欲しいものが有ったら遠慮なく言ってくれよ」

 ガドは箪笥に向かい、自分の普段着と真新しい子供の服を一揃い取り出す。子供に着替えを渡したところで、彼女は初めて自発的に口を開いた。

「……なまえ、を」
「うん?」
「なまえを……」

 その言葉の解釈には少々手間取ったが、理解出来た。名前が欲しい、ということなのか。ガドは少し黙って、彼女の呼び名を考える。

「では、『マナ』と。君のことを、これからはマナと呼ぼう」

 名前。愛。命。単純な連想だったが、子供は不満を表明することもなく頷いた。
 

 外出の準備を整えたガドたちは、まず近所の服屋に訪れていた。女の子向けのブランドなぞ何もわからないから、とりあえず色々な服を幅広く取り揃えている店に。
 初めて入る店、初めての子供との買い出し。2メートル超の大男と、その腰にも届かない背丈の子供という組み合わせは、否応にも人目を惹いた。居心地悪く思いながらも、小児向けの売り場へ向かう。

「マナ、どんな服が良い?」
「……わかり、ません」
「あー、じゃあ……何色が好きだ?」
「……あか、ピンク、しろ、じゃないの」

 挙げられた色は、寧ろ嫌いか──あるいは、何か悍ましい記憶と結びついてしまったもの、ということだろう。そうか、と手短に答えて、自然と寒色系の服の方に向かう。
 近頃は肌寒い日が続いている。子供の小さな体は、あっという間に外気温の影響を受ける。暖かそうな服をいくつかピックアップして、ぼんやりとついてくるマナに見せた。

「この中だと、どれが良い?」
「……わかりません」
「んー……じゃあ、これは好みか?」

 見せたもののうち一つを示して問えば、逡巡の後首肯が返ってきた。それを何度か繰り返し、何を見せても頷くことを理解する。……こうなったら、ガドの趣味で決めてしまう方が良いのかもしれない。

「よし、じゃあ、試着でサイズが合うか確認だ。こいつとこいつ、あっちの試着室で着て見せてくれないか?」
「わかりました……」

 服をいくつかマナに持たせて、試着室へ送り込む。結果、新しい衣装を着たマナはたいそう愛らしく、ガドはいくらか安心出来た。サイズは多少大きかったが、これから成長することを踏まえれば、これくらいでも問題はないだろう。
 試着した服を始め、手袋や帽子、マフラーなども選んで会計する。一つ一つは高くないとはいえたくさん揃えたから、結構な出費になった。子供を育てるのには金がかかる。

「もう大荷物になったな……一旦家に戻ってから、次の買い物に出よう」

 いくらガドが怪力でも、素手で持てる荷物には限りがある。片手をマナとはぐれないよう繋ぐのにあてている分、尚更だ。慎重に子供の歩幅を計りながら、ガドは一旦家路についた。

 その後出直して、ガドは食材を買い揃え、新しいソファの注文をした。──どうせ滅多に横にならないのだから、ベッドはマナに使わせて、自分はソファに座って休めば良い。
 せっかく新しい食材を仕入れたので、その日の夕食には腕によりをかけて、煮込みハンバーグを作った。やっぱりマナには完食出来なかったが、焼いたパンに挟んで即席ハンバーガーとして夜食とした。
 誰かのために料理を作るのは、ガドの性根の奥深くに刻まれた喜びだ。常より少しだけ軽い足取りで、ガドは今夜も仕事に向かう。
 

 マナを引き取ってから、7日ほど経過した。この日、ガドは久々の休日であり、友人であるヨナとの会食の予定が入っていた。
 しかし、マナを連れていくのはやめておくことにした。数日間ガドと過ごしたことで、ひとまずガドに対する警戒心は解いてくれたようだったが、それ以外の人物、特に成人した男に対しては、恐怖と緊張をあらわにするからだ。……ヨナが好人物であることは間違いないが、そんなことはマナには関係ない。
 マナに留守番を任せて、予約していたカフェで合流する。席に着いて間もなく、時間きっかりにヨナが姿を現した。

「こんにちは、お待たせしてすみません」
「いや、俺も今来たところだから」
「それなら良かった。……なんか、また痩せました?」
「俺が瘦せぎすなのは元々だ。知ってるだろうに」

 そう言って、ガドは軽く笑う。ヨナは、ある程度まで本音を話せる数少ない友人だ。金持ちの御曹司でありながら嫌味っぽさがなく、慈愛と賢さを併せ持っている。それに、レーヴァテイルに対して同情的だ。

「そういう体質だってことは知ってるんですが、どうしても心配になるんですよね……」
「心配どうも。最近は食べる量増えたから、変に太らないかの方がな」
「おや、何か心境に変化でも?」
「心境というか……レーヴァテイルの子供の面倒を見ることになってな。余り物を食べるようになったから」
「ほほう」

 ヨナが好奇心を露わに目を光らせた。どちらにせよ、彼女のことについて相談するつもりもあったから、とガドは経緯を洗いざらい話すことを決意する。各々飲み物と軽食を注文してから、本格的に話し込んでいった。
 昔の伝手で、行き場のないレーヴァテイルの子供を一時預かりすることになったこと。心を閉ざした子供の相手に、四苦八苦しているということ。ヨナは一通りの話を聞いた後、こう返す。

「なんというか……本当に真っ当に庇護されてるんですね」
「そうでない場合が有るのか?」
「ええ、まぁ……特に個人が引き取った場合だと、何が起きているか外部には伝わりづらくなりますから。
 とはいえ、外でもないガドさんですからね。そこは信頼出来ますから」
「……本当にそうか、わからなくなる。俺は何の免許も持っていない、ただのしがない警備員だ。
 こんな俺が子供の面倒なんて見たら、いつか致命的なミスを犯しそうで、恐ろしい」
「そうやって考えられる人こそ、支援員には向いてるんですよ。まぁ、でも、ノウハウが無いのは困りますよね」

 元気付けるように微笑みながら、ヨナは視線を宙に巡らせる。

「今の所、何が不安でしょうか? これでも、紅の慈善財団ではレーヴァテイル保護もやってますからね、いくらかノウハウを教授出来ると思います」
「……あの子、マナはとても聞き分けが良い。見た目の年齢は10にも満たない、稼働年数は2、3年くらいか。
 それなのに、好き嫌いのひとつもしないし、どんな食べ物が好きかもまだよくわからない。彼女が本当は何を望んでいるのか、聞き出す術が欲しい……」

 手が掛からないのは、正直ありがたいところだ。単身者のガドでは、子供の養育に費やせる時間に限りがある。だが、その為に子供に無理をさせては元も子もない。寡黙な少女が、不安や不満を内に秘めたままでいやしないか、ガドは本当に心配だった。

「なるほど……僕も、最初のうちは困りましたね。心理学をかじったりして、僕らなりのやり方を作りはしましたが、まだ手探りなことばかりです」
「これは典型的なことなのか?」
「過酷な状況から保護されたばかりのレーヴァテイルが、自分を抑えて他者の顔色を窺うようになる……というのは、典型的です。
 というより、これは人間にも通じることですよ。児童虐待のサバイバーが、得てしてそうなりがちであるように」
「ああ……」

 言われて、納得する。ガド自身にも心当たりがありすぎた。

「心の傷の特効薬は、深い愛と時間だけです。根気強く向き合って、諦めずに対応し続ければ……いずれ、心を開いてくれることもあるでしょう」
「具体的に、君たちはどんな取り組みを行う?」
「そうですねぇ……文化的で健康的な最低限の生活の保障、継続的なカウンセリング、とかは言わずとも当然として……
 意思疎通が可能な程度に回復した人に対しては、簡単な作業をお任せして、工賃をお渡しすることにしています。
 自分には何かをすることが出来る、行ったことで正当な評価を得られる……そういう環境におくことは、自己肯定感の獲得・回復に繋がりますからね」
「ふむ……」
「それに、自分で使えるお金があれば、自然と欲しいものが思い浮かんでくる人も多いです。どうでしょう、参考になりますか?」

 生活の保障、に関しては出来ていると思って良いだろう。カウンセリングに関しては、いずれヨナ経由で良いカウンセラーを紹介してもらっても良いかもしれない。しかし、簡単な労働とその対価、とは。

「マナはまだ子供だ、となると……勉強でも教えるべきか?」
「ああ、それも良いアイデアです。
 実際にウチでも、教育を放棄されたり、あるいは非常に偏った教育をされた人に対しては、改めて学習プログラムを受けてもらうこともありますからね」
「俺のような学の無い者に、勉強を教えられるとは思えん……」
「貴方は学歴が無いだけで、地頭はめちゃくちゃ良いじゃないですか。いくつかオススメの本でも紹介しましょうか」
「それは是非頼む。で、勉強を頑張った対価にお小遣いを渡す?」
「そうですね。とはいえ、マナちゃんはまだ子供ですから、完全に自由に使うってことは出来ないでしょうが」

 ガドは頷く。レーヴァテイルの子供が1人で出歩いていたら、どれだけの悪意が顕在化することやら。想像するのも悍ましい。
 やがて、2人のテーブルに注文の品が届いた。ガドはコーヒーとアイスクリームを頼んである。ヨナといえば、ハーブティーとホットサンドを頼んだようだ。いただきます、とどちらからともなく呟く。

「もう少し、あの子が他人に慣れたら、こういう店にも連れて来たいな……」
「良いですね。その時は、僕とアイボリーも誘っていただけませんか?」
「ああ、予定が合ったらな」
「楽しみにしてますよ。……うわぁ、ここのハーブティーめちゃくちゃ美味しいですね」
「気に入ったのなら、良かった」
「本当に、ガドさんの店選びに外れはありませんね。……ここの茶葉って売ってますかね」
「確か少しだが売ってたぞ。後でレジの近くを見ると良い」

 話題は徐々に他のことに移り変わってゆき、他愛のない近況報告が続く。無事社会復帰を果たしたレーヴァテイルの話、妻との結婚記念日の話、正義を語り合える友達の話──ヨナの話には、この冷たい世界の唯一の陽だまりのような、そんな温かい気持ちがこもっていた。
 

 引き取ってから一ヶ月もすると、マナも少しずつ口数が多くなってきた。普通の子供と比べればまだまだ無口な方だが、それでも大きな進歩である。
 ガドは仕事の傍ら、ヨナに勧められた本を使って、マナに基本的な勉強を教えた。読み書き、算数、身の回りの物事の名前──子供なだけあって、マナはとても飲み込みが早かった。
 教育らしい教育を受けたことのないガドの説明は拙く、複雑な概念を教える時は非常に手間取った。だが、マナが自発的な質問をしてくれるようになってからは、段々とスムーズになってきていた。

「──つまり、『雷』は……大昔には、二つのものだった?」
「ああ。まぁ、明日使えない無駄知識ってところだが」

 実用的なもの、そうでないこと。実際の経験を元にした知識、本やテレモで得た情報のうち、エビデンスが確かなもの。そして一番大事なことは、マナは愛されるべき子供であるということだ。
 事実、ガドは持てるもの全てでマナを庇護していた。見返りを求めない無限の愛こそ、保護者の立場にある大人が備えるべきものだと、彼はその欠如を以て知っている。

「ううん、えっとね……マナはね、おじちゃんの教えてくれること、好きなんだよ」
「ふふ……よしよし。それじゃ、もう少し進めようか。そのページを読み終わったら、昼飯にしよう」

 ふわふわの髪を優しく撫でて、手元の本にマナの視線を誘導する。自然現象について取り扱ったページの図解を眺めながら、彼女はそれらを自分の知識として落とし込んでいく。
 かつてはぼんやりと曇っていた青の瞳が、今は好奇心に煌めいている。やがてページの中に疑問を見つけた彼女が顔を上げ、その純真な眼にガドを映した。今にも死にそうな顔をした自分と目が合った。

「……おじちゃん、疲れた、の?」
「は、……いや、いいや。大丈夫だよ、心配は要らない」
「あのね、ごはんはマナも作れるよ。だから、おじちゃんは休んでよ」
「駄目だよ、マナ。子供がそんな気を回してはいけない。……飯の支度を始めるから、そこで待っててな」

 ガドは立ち上がり、少し伸びをしてからキッチンへ向かった。子供を心配させてしまうような顔を晒すとは、情けない。
 調理に手をつけたは良いものの、一向に食欲が湧いてこなかった。元々食が細いのもあるが、少し疲れているのかもしれない。だが、それは些細なことだ。マナの分だけホットサンドを作り、テーブルに運ぶ。

「どうぞ、マナ。熱いから、気をつけて召し上がれ」
「……おじちゃんは?」
「歳を取るとな、あんまり量が食べられなくなるんだよ。俺は少し仮眠するから、食器はキッチンに置いておいてくれ……」

 そう言って、自分はどかりとソファに座り込み、背もたれに沈み込みながら目を閉じる。そうすれば、例え眠りに落ちることがなくとも、身体は休められる。
 他者の気配を鋭敏に感じ取るから、ガドの意識が完全に落ちることはない。だが、思考から脈絡が失われてゆき、やがて停止する。思考停止した意識の表面を、子供の足音やカーテンが引かれる音が撫でていった。

 ……。
 …………。
 ………………。
 大きなソファの隣に、子供の体重が乗る感触がした。反射的に意識が覚醒する。理屈ではない嫌な予感を覚えて瞼を開けたのと、マナの腕がガドの肩に絡みついたのは、ほとんど同時だった。

「……!!」

 子供の高い体温を間近に感じる。外出の際に手を繋いだり、疲れたマナを背負って歩いたりすることは有った、だが、これは全く異なる意図を帯びている。
 単なる愛着と親愛の表れなら、構わない。しかしそれ以外の何かなら──『見返り』としての何かは、駄目だ。近づいた子供の頬を両手で掴んで止め、努めて静かに口を開く。

「駄目だ」

 おそらくは、かつての彼女の主人は、『そういうこと』を求めたのだろう。レーヴァテイルセラピー、近頃はそんな名前のついた搾取。しかしどんなに『自由意志』だの『新しい愛の形』だのとラッピングしようと、搾取は搾取である。
 マナは困惑している。ガドは、口の中が苦くなるのを感じた。痺れそうなほどの怒りの味だ。

「俺は君の保護者で、君を監護する立場にある。俺が君を大切にするのは、そういう責任が有るからだ」
「……でも、おじちゃん、疲れてるでしょ」
「癒しを求めて君を引き取ったわけじゃない。君にそういう形で奉仕されるのは、率直に言って不本意だ」

 そう言って、言い方を間違えたとすぐ後悔した。マナは当惑した後、ぐしゃりと顔を歪ませて涙を浮かべる。縋りつく力が強くなった。

「おじちゃんは……マナのこと、好きじゃないの? き、キライだから、さわりたくないの?」
「違う、違うんだ、マナ。俺は君という子供を愛している、だからこそ、君の傷になりかねないことはしたくないし、させたくない」
「……もう、ておくれだよ。マナはね、これがキズだっていうなら、もうキズだらけ……」
「だとすれば尚更、それ以上傷つく必要はない。君はまだ子供なのだから」

 言葉を連ねるたびに、古傷が痛むような思いだった。ガドは辛うじて涙だけは堪え、震えるマナの頭を撫でる。

「……君の痛みはよくわかる。だから、駄目なんだ」
「で、でもぉ、でもぉぉぉ」

 ついにわんわんと泣き出した子供を、ガドは逡巡の後抱き締めた。しゃくりあげる背中をさすって、漸く表に出た悲しみが、全て洗い流されることを願う。
 泣き声を受け止めながら、ガドは胸がすうっと冷たくなっていくのを感じた。絶望の温度。マナは運良く前の持ち主の元から離れられたが、同じような境遇のレーヴァテイルは、見なかったことにしたくなるくらい居る。
 ──全ては運命なのだ。神はそのようにこの世界を創った。あまりにも大きすぎる流れは、人の掌では受け止めることも、変えることも出来ない。

「大丈夫、大丈夫だ……俺は、君を愛している……」

 神が憎い。殺せるものなら殺してやりたい。あるいはそいつが創った世界の醜さを一つ一つプレゼンして、自らの才能の無さを思い知らせてやりたい。──シュレリアが憎い。
 けれども、その憎悪と殺意を実行に移す勇気はなくて。大河の水を小さな柄杓で延々と掬い上げるような、ちっぽけな慈善しか行えなくて。

「おじちゃん……抱っこしてぇ……」
「……ん」

 ガドの掌は、マナの小さな身体を守るように抱えるだけで、精一杯だった。
 

 料理、煙草、そして酒。ガドにも趣味はあるものの、それに散財するようなタイプではなく、故に浮いている金は大いに有った。常であれば急病などに備えて貯めている余剰を、ガドは湯水のようにマナのために費やした。
 休日に遊園地に連れて行って、わたあめやポップコーンを買い与え、コーヒーカップに目を回した。別の日には植物園に連れて行き、名も知らなかった花の名を知り、バラ味だというソフトクリームを食べた。飛空挺の遊覧飛行のチケットを取り、雲海の広大さに目を丸くするマナの横顔を見た。
 この掃き溜めのような世界の、ほんの上澄み。楽しく美しく面白おかしいことだけを、マナに与えようとした。

「おじちゃん、すごいねぇ、楽しいねぇ」

 そう笑う子供の顔を見るたびに、少しだけ、自分が価値のある生き物になれたような、そんな気がしていた。

 しかし、所詮ガドはマナを一時的に預かっているだけだ。彼女の正式な引取先が見つかれば、別れの時が来る。その時は唐突に訪れた。

「やぁガド! 預けたレーヴァテイルの子は元気かい?」

 突然アポ無しでガドの家を訪れたのは、マナを彼に預けた古くからの知り合いの男だ。寝ぼけ眼を隠さず、ガドは男に応対する。

「ああ、あの子──マナは元気だ」
「あれ、そんな名前だったっけ……?」
「持ち主によって名前が変わるのは、よくあることだろう。で、何の用なんだ」
「正式な引取先が決まったんだ」

 は、と息が詰まるのを、ガドはどうにか隠した。平静を装って、それはよかった、と笑う。

「まともな相手なんだろうな」
「そりゃ勿論。羽振りの良いお家だよ」
「そうか。……マナ、聞いてたか?」

 振り返り、壁に身を隠しながら覗き込む子供を手招きする。少女は怯えたような顔で、しかし素直にガドの元に来た。

「おお、本当に調教が上手いんだな。また頼めないか?」
「いや……もう連れて行くのか?」
「そのつもりだったんだけど」
「……わかった。荷物を纏めるから、ちょっと待っていてくれ」

 そう言って狭い部屋に引っ込み、マナのために買った服や雑貨を空袋に詰めていく。思いの外量が多くなったが、どうせ女児用の衣類なんて自分では使いようが無いのだ。

「……おじちゃん」
「なんだい」
「……行かないと、いけない?」
「……ああ。そうだな。こんな狭い部屋にいるより、ずっと良いお家に行けるんだ」

 煙草臭い独身男性の狭い狭い部屋の中では、与えられる自由は限られる。例えガドが最大限努力したとしても、彼女は数多の機会を逃し続けるだろう。たとえ今は安定した暮らしが出来ているとしても、ガドは身寄りのない孤児でしかないのだから。
 そう言い聞かせても、マナは泣きそうだった。泣きそうな顔のまま、彼女は袋に詰めようとしていた小さなぬいぐるみを取り、ガドに押し付ける。

「おじちゃん。……これ、あげる」
「良いのかい? 随分気に入っていただろうに」
「……うん」

 大人しく受け取ると、マナはようやく笑った。自分を隠した作り笑い──それを見た瞬間、違う、と直感した。そんな顔をさせたいわけじゃない。
 声が出なかった。ガドをぎちぎちに締め上げる常識という名のコルセットが、呼吸と声とを奪う。歯を食いしばるうちに、マナは荷物を持って立ち上がってしまった。

「じゃあね、おじちゃん……」
「よしよし、それじゃあ僕と一緒に行こうか」
「はい……」

 『待ってくれ!』。その一言が出なかった。その激情に、正当性を取り繕うことが出来なかった。ガドは呆然としたまま、マナが去り、扉が閉まるのを見送った。
 これが、最後のターニングポイントだった。──何が何でも、それこそ泣き叫んででも、『マナを連れていかないでくれ』と訴えれば良かったのだ。
 

 マナが去り、半月が経つ。ガドは何者にも乱されることのない日常を繰り返す。以前と変わらない、しかし巨大な虚無の横たわる日々。まるで湖底へと沈み続けるような。
 そんなある日、マナを連れ去った知人の男が、ガドを酒の席に招いた。断る理由もなく、ガドは指定されたバーを訪れる。そこには、知人以外にも知らない人間が数人来ていて、テーブルを囲んで談笑していた。

「おっ、来たね、ガド。何飲む?」
「あー、それじゃ……とりあえずミモザを」
「こいつ、女みてえな好みしてんな」
「……よく言われるよ」

 ガドは酒に関してはザルだが、甘いものや飲みやすいものを好んでいる。意外に思われ、時には馬鹿にされることもあるが、実害は無いので特に隠していなかった。この程度の意外性で驚いておいてくれれば、暑い日にも長袖を着込んでいる理由には突っ込まれずに済む。
 注文した酒と、先に来ていた彼らが追加した軽食が揃うと、また会話は盛り上がっていく。あの有名人のスキャンダル、あの風俗店が良かった、嫁が最近冷たい──ガドからすれば、鼻をつまみたくなるような話題ばかりだった。
 それらに対し、適当に相槌を返す都度、息が詰まるのを感じる。呼吸はおろか、目を開くことも出来ない、重い重い水の底。久々に、手首を切らなければならない気分になる。

「ああ、そういや、マナちゃんだっけ? 最近『入荷』したっていう」
「お、そうだったそうだった。そのためにガドを呼んだんだよ」
「……『入荷』?」

 マナの名がこんな場で出るとは思っておらず、つい素の表情が出る。知人の男はニヤニヤと笑いながらテレモを操作し、やがて一枚の写真をその画面に映した。

「ガドのお陰でとっても『使いやすい』って、評判だったんだ。まぁすぐ『壊れ』ちゃったけど」

 ──見せられた画面を、ガドは正確に認識することが出来なかった。それは彼が最も恐れていた事態で、しかし最悪であるが故に『それはないだろう』と排除していた可能性が、そのまま現実になったことの証拠だったからだ。
 首が荒縄に絞められているような錯覚がした。ドクドクと心臓が荒れ狂い、目の前が真っ赤になる程血を巡らせる。酒の匂いを纏った吐息が炎を生み出しそうなくらい、全身が熱かった。
 殺す。殺す、殺してやる!! ガドが愛した幼子を、こんな目に遭わせて、その上それをポルノとして消費しているこのクソどもを、この手でねじり殺してしまわねば気が済まない!! ──すんでのところで、理性がガドを押し留める。
 いや、それは理性などという綺麗なものではない。遵法精神という名前の付けられた、人を縛り付けるコルセットだ。

「……飲み過ぎたようだ。遅れてきた上に済まないが、俺は中座させてもらう。代金はここに」

 震える手で財布から金を出し、知人が何か言うのも聞かずにガドは店を立ち去る。夜風の涼しさとは対照的に、ガドの脊髄は溶けた鉄のように煮え滾っていた。
 その熱がガド自身を傷つけるように、コルセットが締め上げられる。この程度の事態を想定せずにマナを送り出したお前が悪い──街中に蔓延る暗闇から、無数の非難の視線を感じる。お前が悪い、お前が悪い……。
 帰巣本能に従って、どうにか自分の部屋に戻るまでは出来た。荷物を乱雑に玄関に置き、そのまま洗面所に走る。

「ヴっ……おごぇ、えぇぇげぇぇ……」

 先ほど飲み食いした全てが逆流する。胃酸が喉と唇を焼く。多少落ち着いたところで口に水を含むと、また吐き気が誘発されて、もう何がなんだかわからない体液を吐き出す。顔中がぐしゃぐしゃだった。
 ふと、顔を上げた。電気の一つも付けていない洗面所が、鏡に映る。──死にそうな顔をした男の代わりに、どろどろに溶けた肉塊のようなものがそこにあった。
 一つに溶け合った肉塊から、子供の顔が浮き出る。マナの愛らしい顔は、苦痛に歪んでいる。

『どうしてたすけてくれなかったの?』

 次々と顔が、口が、目玉が、悲鳴が湧き出る。ガドと関わり、そして恐らくガドの代わりに運悪く死んでいった、無数の少女たち。

『言ったよね? 今度は間に合わせてって』
『お兄ちゃん……痛かったよぅ……気持ち悪かったよぅ……』
『おいたん……おいたん……』
『ねぇ、私たちはみんな殺されたの。貴方を生かす世界が、私たちを殺したの』
「誰もあたしたちを助けてはくれない。だから誰も助けてはだめだったのに」
『たすけてよぅ、くるしいよぅ、もうやだぁ』
「死ね、愚図め。オマエのような見苦しいゴミクズが生きることは、誰のためにもならない」

 酷い耳鳴りがした。きぃーんと鳴り響いて平衡感覚を奪うそれは、幻聴に奇妙なリアリティを与える。部屋中に満ちた暗闇が、剃刀をガドの手に握らせた。
 血と汚泥に塗れたこの手、この身体。それでもガドは生き延びた。男の身体をしていたから生き延びられた。その事実が死にたくなるほど忌々しい。
 闇が口から、鼻から、耳から、今切り裂いた左手首の傷口から、これから切り裂く腹の傷から、侵入ってくる。絶望と混沌に狂った頭では、最早順序だった思考なんて出来はしない。
 弱り切った赤子のような、原始的で弱々しい悲鳴を上げながら、自らを罰するように自傷する。何も考えられなくなるような痛みを欲して、行為はますますエスカレートしていく。自分の命など、とうに勘定に入っていなかった。
 何故誤ちの結果を何の罪もない子供が被らなければならない。どうして最も罪深きニンゲンはのうのうと生き延び、レーヴァテイルばかりが割を食う。──何故、自分は生きている。
 

 血塗れの洗面所で目を覚ました。小さな窓から差し込む光が、朝が来たことを告げている。身体は重く冷たく、息を吐くたび鈍く痛んだ。
 小鳥たちのさえずり。隣の部屋の住人の朝食の香り。柔らかな朝日。何もかもが、薄い暗闇に覆われて見えた。ガドはゆらりと立ち上がり、操り人形のように覚束ない足取りで歩き出す。
 血と吐瀉物で汚れた服だけ着替え、簡潔な遺言状を認め、ガドは部屋を抜け出した。折良く今日は休日、彼にしがらみは無かった。トーテンタンツを踊るように、軽快な足音を立てて通りに出て、爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸う。
 すがすがしい、良い日だった。クズどもを地獄に叩き落とすのにはピッタリだ。ガドは笑いながらテレモを取り、ヨナに繋ぐ。

「もしもし、ヨナ、今時間はあるか?」
『……ガドさん? 急にどうなさったんですか?』
「少し話があるんだ。どうだ?」
『まぁ……良いですよ。今はアップルキッチンに居ます。午前中はこちらで業務する予定です』
「ああ。ありがとう、友よ。では後ほど」

 長い脚でステップを踏みながら、ガドは歩き出す。最期にヨナに会って、自分の遺産を受け取ってもらうように言うのだ。輝く白い雲が眩しくて、涙が止まらなくなった。

「ははは……はっ、ははっ、くははっ……」

 肩を揺らして笑い声を上げ、疲れも知らず駆け抜ける。ヨナのいるレストラン・アップルキッチンに到着するまで、体感ではそうかからなかった。

「やぁヨナ、居るかい?」

 まだ店は開店前のようで、扉こそ開いていたものの人影は疎らだった。ガドの呼びかけに応えて、店の奥からヨナとその妻アイボリーが現れる。

「ガドさ──ど、どうしたんですか、その怪我は!?」
「気にしないでくれ。それより、君たちにお願いしたいことがあるんだ」
「気にしますよ! アイボリー、治療を……!」
「わかってる、ガドさん、とりあえずこちらへ」

 傷だらけの腕を引かれ、ガドは店の奥まった方の席に据えられた。そのままこちらの言い分を聞く前に、アイボリーが治癒魔法の詠唱を開始する。

「治療はいらないんだが」
「そんな怪我をしている人の話なんて、気が気じゃなくて聞けませんよ。どうしても話したいなら、治療は大人しく受けてください」
「……そうか」

 しかしガドの傷は深く広く、アイボリーの詩魔法では完治までには至らなかった。しかし痛みは随分と引いていて、そのせいで余計なことばかり考えるようになってしまう。涙が溢れる。

「まだ痛みますよね。ごめんなさい、私の力が及ばず……」
「いや……良いんだ。そんなことよりも、話を」
「……そうですか。話というのは?」
「何も聞かずに、俺の全財産を受け取ってほしい。遺言状も書いてある」
「は……ちょ、ちょっとちょっと、一体全体どういうことですか!?」
「まぁ、ダメならダメで良いんだが」
「もうちょっと詳しく聞かせてください。そうじゃないと、流石に困りますよ」

 ヨナがここまで粘るとは思っておらず、ガドは当惑した。ヨナという青年は、青臭いほどの善良さを持った優しい男であったが、詮索を制止すればそこで止まるタイプだと思っていたから。
 観念して話そう──そう思った所で、また息が詰まる。今回の事件は、マナがあんな目に遭ったのは、偏にガドの想像力不足故だ。『お前が悪い』と言われるか、『気にするな』と言われるか、どちらにせよ怖くて、また情けない呻き声が出た。

「……何か、温かいお茶でも如何ですか? コーヒーもありますよ」
「…………だが、俺は、もう」
「ふむ……でしたら、お茶にしておきましょう。アイボリーがこの前良いやつを仕入れてくれたんです」
「それじゃ、私が淹れてきますね。ヨナはガドさんをお願い」

 アイボリーが席を立ち、開店準備に慌ただしい厨房に向かう。そう時をおかず、彼女は温かな湯気をあげるお茶を3人前持ってきた。ミルクと砂糖も並べられる。

「これはスール農園っていう、茶葉生産の大御所の農場から出ている茶葉なんですよ。渋みが少なめで、ストレートで美味しいタイプですが、お好みで調整してくださいね」

 そう勧めて、アイボリーが一足先に紅茶を口に運ぶ。礼を言おうとしたのに、ガドの喉は意味もなく震えるばかりだった。
 世界中の何もかもが信頼出来なくなっていた。今目の前にいるヨナたちでさえ、例外でなく。司法さえも見捨てるレーヴァテイルたちの命を、一体誰が顧みてくれるというのか。
 ガドが戸惑い、呼吸を荒げて、声もなく涙を流す間、それでも、ヨナたちは黙って待っていた。彼の心が対話に耐えうる程の秩序を取り戻すまで、静かに待っていてくれた。
 それにどれほどの時間を要しただろう。ガドにとって、それは永遠に等しい長さだった。それだけ経って、ようやく彼は口を開くことが出来た。すっかりぬるくなったお茶を一気に飲み干し、掠れた声で語る。

「……マナ、が」

 一度堰が切れてしまえば、もう止まらなかった。荒れ狂う怒りと嘆きの波浪のままに、ガドは事の顛末を語る。マナが如何に愛らしかったか、ニンゲンどもとは如何に悍ましい存在なのか、衝動のままに固めた決死の覚悟──その全てを、ヨナはうんうんと頷きながら聞きとめていた。

「次第は理解しました。……そうですね、やはり貴方の遺産は受け取れません」
「何故だ。君ならわかってくれるんじゃないのか」
「わかるからこそ、です。……ひと月ほど待ってもらえませんか? そうしたら、貴方に朗報をお聞かせ出来ると思いますので」
「朗報とは何だ。マナが帰ってくるのか? 奴らに喰われたレーヴァテイルたちが、蘇るとでもいうのかッ!?」
「いいえ。ただですね──復讐には、合法的なやり方も有るのですよ」

 ヨナは微笑んでいた。その瞳に底知れぬ義憤を宿して。──言葉に宿る炎の温度は、ガドのそれとよく似ていた。

「僕は、レーヴァテイルがそれでも普通に生きていける世の中を作りたい。
 レーヴァテイルに生まれただけで生き方を他者に決められ、生殺与奪すらままならない世界は間違っている。
 人間に媚びなくても、人の役に立たずとも、それもまた善良さや美徳として捉えられるようになってほしい。
 ──僕の思想は、平等主義と世間には呼ばれていますが、本質は非常にラディカルなものです。現状の社会そのものに対する懐疑なわけですから。
 そんな僕が、ただ大人しく慈善活動をしているだけ──そんな甘っちょろいやり方で留まっているとお思いでしたか?」

 握手を求め、ヨナの右手が差し出される。貧困にあえぐレーヴァテイルたちに差し伸べられ、その多くを掬い上げてきた輝かしい掌──あるいは、大義のための悪に染まった掌。ヨナの姿が、先ほどとは全く違って見えた。

「その案件、貴方の怒り、少しの間僕に預けてくださいな。どうにかしてみせますので」
「……信じて、いいんだろうな」
「いやぁ、それには『信じてください』としか言えませんけどね」

 弱り切った心に、その空隙を埋めるように差し伸べられる光。今自分は本質を見破れる状態になく、これもまた裏切りの布石だったとしたら、今度こそ立ち直れなくなってしまうだろう。だが、だからこそ、抗えなかった。
 ガドはヨナの手を取った。蜘蛛の糸を取るように、しがみついた。

「……信じるぞ。君を。裏切れば、俺の怒りは君に向かう」
 

 果たして、信頼には成果で以て応えられた。持ち主の居なくなったレーヴァテイルを慈善家を装って引き取り、実際にはありとあらゆる搾取を行っていた富豪が、その悪事を余罪含めて摘発され、有罪判決を下された。また、彼に引き取られていたレーヴァテイルたちのうち、命の有った者は、ヨナによる紅の慈善財団が引き取った、と。
 その報せを持ってきたヨナは、しかし浮かない顔だった。ガドを再びアップルキッチンに呼び出し、小瓶の中に入れられたDセロファンを引き渡し、彼は言う。

「申し訳ありません。……マナちゃんは、助けられませんでした」

 かつてマナだった結晶体は、もうものを言うことはない。呆然としたままそれを受け取り、青く透き通る綺麗なものになってしまった愛し子を、ただただ見つめる。

「貴方の証言のおかげで、主犯と結託し違法ポルノの取引を行っていた者も、芋づる式に取り締まることが出来ました。
 ……貴方が、勇気を出して話してくれたおかげです。ありがとう、ガドさん」
「勇気……俺に、勇気なんて」
「謙遜はなさらないでください。それで、どうでしょう? 僕たちは貴方の信頼に応えられましたか?」

 その問いに、肯定以外の答えはなかった。ガドは頷き、しかし震える声で囁く。

「……君は、この世の中を変えたいと言っていたな」
「はい」
「……今回の主犯は、ほんの一枝、ほんの一欠片だ。レーヴァテイルを殺すのは、個々の悪意ではない。
 差別、貧困、そして──大いなる運命の流れ。それらがニンゲンを悪に染め、レーヴァテイルの血河を築く。
 “合法的な復讐”の代行、本当にありがとう。だが、それが何になる?
 君は素晴らしく高潔な人間だ。だが、傑物が1人居ただけでは、運命は変わらない……」
「いいえ。変えられますよ」

 相変わらず、ヨナは微笑んでいた。その表情は以前と何ら変わっていないはずなのに、今はどこか底知れなさを覚える。彼は声を低める。

「何も、僕と同じ考えの方は僕だけではないということです。──“あのお方”が、僕に道を示してくれた。
 ガドさん、貴方の言うことは正しい。世界の流れというものは、個人がどんなに頑張っても、変えることは出来ません。
 ですが、僕には仲間がいます。1人では変えられませんが、幾人もの意思が手を取り合えば、ずっと効率よく影響を及ぼせる。
 ──貴方の力も必要なんですよ、ガドさん」
「……君は、何をしようとしている? “あのお方”とは何だ?」
「罪には罰を、──邪悪にはより大いなる邪悪を。功罪を正しく量る為の、赫き血の天秤を」
「本気なのか……? この世の中で? 上手く行くと思えない。仮に成功したとして、君は凄まじい犠牲を払うことになる」

 ヨナははっきりとは言わなかったが、ガドには察することが出来た。彼は、レジスタンスと繋がりを持っている。それも、とびきり過激派の。
 ずっと感じていた違和の正体に気づいた。ヨナの道の先には、破滅が大口を開けていたのだ。それが見えない男でもないだろうに、しかし彼はその先へと進もうとしている。能天気なわけではない──彼は、破滅をも打ち倒そうとしている。出来るか出来ないかは別として。

「全て、覚悟の上です。自棄になってるんですよ、僕は」
「……どこまで、やるつもりなんだ」
「とことん、必要がなくなるまで。──どうでしょう、ガドさん。
 どうせ決死の覚悟を決めていたなら、僕たちと一緒に死ににいきませんか?」

 ──この世界には、まず波動が有ったという。それがどのようなカタチなのかを知る術はないが、もしかしたらそれは眩い光だったのかもしれない。今、ガドが見ているような。
 息苦しい程の濃霧を彷徨う中、乱反射する光を見る。旅人を導く灯台のような。霧笛を聞いた気がした。

「……ああ」

 肯定というよりかは、詠嘆のような声。ガドは、頷いた。居もしない神なんかよりもずっと、高潔で神々しい存在を、見た。

「……わかった。俺も、リスクを背負おう。惜しくはない命だ……」
「そんなこと言わず、長生きしてくださいよ。この戦いは長丁場になるんですから」

 もう、言葉は出なかった。この半生の恥辱と苦痛に、ようやく意味が与えられた。また、ガドだけが救われる。生まれつき命のなかった子供たちの中から、ただ、ガドだけが。
 だからせめて、出来るだけ多くの子供たちを、レーヴァテイルたちを、助けよう。残りの人生全てを賭けて、ヨナたちの理想を手繰りよせよう。例え、その先に待つのが、不可避の破滅だけだとしても。
 この決死の一生は、そう──マナがあんなに泣きそうな顔をしてまで欲しがった、明日のために。