傾かざる赫の天秤 外伝 【新たな灯火】


 ホルス右翼の最果て、銀牙山脈。
 その地下に迷宮の如く広がるのは、赫の天秤が擁する地下アジトだ。
 新たな部屋に物置と開拓する内、翼の底を抜けてしまった場所も存在する。
 無論眼下に広がるのは一面の雲海。彩音回廊の範囲外であるため冷気が直接昇ってくる上に、意図しない穴に足を滑らせればただでは済まないことから、近辺は立ち入り禁止とされている。
 そんな小部屋の一つ。さながら氷上釣りの如く手のひら程度の穴が開いた底に向けて釣り糸を垂らす一人の男がいた。
 如何にも紳士然とした格好の男は傍らに置かれた薪ストーブで厳しい寒さを和らげているようであった。

 外に投げ出された釣り糸の先に針も餌も付いてはいない。ただ吊鐘錘だけがぶら下がっている。竿も竹竿のような簡素なものだ。
 雲海に何がしかの生物が棲んでいるという話は聞かないが──仮にいたとしても食いついてくることはないだろう。
 彼は釣りのポーズこそ取っているものの、その目的は全く別のところにあった。
 それは瞑想。それも護と共に行う特殊なものである。
 心身を平静に保ち、外界ではなく己の心の内に目を向ける。
 すると護の力によって、とても明瞭な別の認識が浮かび上がってくるのだ。

 ただ、薪が爆ぜる音と風鳴りだけが響く中、彼の意識は深く深く潜っていく──


 男──ヴラクトゥアスの意識が浮上した時、そこは先程までの風景とは一変していた。
 全体が白い円筒状の部屋。中心には回転する二重らせん。それを囲うようにして八個の器のようなものが台座と共に並べられている。
 片膝を立てて座り込んだ体勢のまま手の握り開きを繰り返し、しばらく手のひらを見つめた後ゆっくりと立ち上がった。
「ヴラク、起きたの」
 高めの声は頭上から響いた。二重らせんに身を絡めて一緒に回る、緑鱗のワイアーム──護のリューイだ。
 するすると目線の高さまで降りてきて、それから宙にふわりと浮かび上がる。
「でも今日はこっちなんだ。どしたの?」
「他のテル衆と出会って……そうですね、明確な力量不足を感じたものですから」
「うんうん、ずっと離れてたの。だからマホー、作りに来た?」
「そういうことです。……が、具体的なイメージというものが浮かばなくてですね」
「まさか火離れ、する?」
「いえ、そこは据え置きでお願いします」
 はふ、とリューイは燃え残りの煙を吐く。呆れとも不満とも取れる反応だ。
 しかしここは同調中の精神世界。「ブレないなー」という感心と呆れ、そして多少の安堵感が伝わってくる。
「やはり炎に勝る良きモノというものはありませんからね。然るべき未来を齎すのも勿論その力ですとも」
「燃やす炎の新しい力ねー……どんな?」
「ですからそこで詰まってしまうのですよね……」
 額を抑えての溜め息。リューイはじりっとした頭痛と共に、炎袋で不完全燃焼を起こした時のような不快感を覚える。
 もやもやとした……つまり真剣に悩んでいることが伝わる。双方向性だ。
「んー……ヴラクは炎で星を救いたい。よねー?」
「ええ、その通りですよ」
「だから、救うための炎はそのまま。星じゃなくて、ヒトに向けたら?」
「ヒトに……ですか?」
「それも、まだ助けて生きるヒト! 悪いところだけ燃やして救うの! どう?」
 名案! とばかりにリューイは翼をはためかせる。期待の込められた想いだ。
「…………なるほど……それは確かにイメージし得ませんでしたね。試してみてもいいですか?」
「もちろーん。マテリアルパレット、空いてるよ」
 部屋の中央に広がる円形に並べられた小さなパレット。その一つに手を乗せてヴラクトゥアスは目を閉じる。
「救い……ヒト……炎……」
 イメージを固めるように呟き、唱える。するとパレットの上が歪み、徐々に何かを形作っていく。
 変化が止まり完成したらしいそれはどうやらヒトの右腕に炎を纏わせたオブジェであった。
 オブジェの周りをぐるぐる飛び回って検分するリューイは三周ほどした後、落胆した様子で頭を下げる。
「ヴラク、これ、いつものと一緒。本当に燃やしちゃうの」
「……これは中々……難しいですね」
 "悪いところ"の切り分けができていなかったのか、至って普通の人体発火現象を巻き起こす代物になっていたようだ。
 溜息を一つ吐いて、オブジェをぐしゃりと手のひらで押しつぶす。残骸は残らず、元の空きパレットへと戻った。
 そして再び空いたパレットに向き合って暫く。先程は比較的早くに変化が見られたが、此度は静かなままである。
 じりりと集中が乱れたタイミングを見計らってリューイは小さく火を吹きかけて意識を引き戻す。
 こういった精神の波もこの世界では簡単に捉えることが出来るのだ。
「迷い……うーん、ちょっと違うの。ふわふわしてる、固まってないの」
「今まであまり意識したことがありませんでしたからね……正直なところ、結構な難易度なんですが」
 曖昧なものを形にするのは難しい。はっきりとしたイメージが伴ってこそである。方向性はあるものの、熱量も具体性も足りないと言える。
「知ってるの。でも、最近はちょっとしてるの。だから大丈夫」
「確かに、ここのところ組んで行動することが増えましたからね。そちらにも目を向けてみますか……」
 三度集中し、曖昧とした想いの内を意識する。
 物理的な損害は殆どなかったものの、戦いの最中に苦しめられた付与効果の数々。
 そう、そもそも手にした炎は苦痛を取り去るものではなかったか。
 内因ではなく外因であれば、それ自体を燃やしてしまえばもっと簡単に──円満に救えるはずなのだ。
 想いと記憶とが一本の糸へと縒られていく。
 そうして新たな形を伴ってパレットの上に紡がれたのは、人魂のように浮かぶ黒い炎であった。
 具現を見るなりリューイは再びその周りを飛び回って検分する。
「ふんふん……これなら大丈夫そうなの! 試してみるの!」
 言われるがまま、黒炎に手を伸ばす。炎は指先を伝い、全身を覆っていく。が、近場で燃えているにも関わらず熱は驚くほど感じない。暖められた空気を感じる程度だ。
 よくよく見れば、肌に膜のようなものが浮かび上がっているのがわかる。炎はこの膜だけを燃やしているのだ。
 しばらくして燃やし尽くしたのか炎の勢いは一気に弱まり消えてしまう。服や肌に焦げや火傷、煤といったものも見当たらない。心なしか清涼感さえ感じさせる。
「これは……本当に素晴らしいものになりましたね」
「ちゃんとできてよかったの」
「とはいえ受動的な魔法は使う機会がないに越したことはないのですがね」
「それを頑張るのもヴラクなの。念願成就の力、鍛えるの」
「おや、これは一本取られてしまいました」
 返ってきた正論に思わず笑みが溢れる。まだまだ為せることは多いようだ。
「では目的も達しましたしそろそろ起きることにします」
「わかったの」
 リューイは手をぐるりと一周巻いて離れていった。
 初めと同じように目を閉じれば緩やかに意識が白くぼやけていく──


 吹き抜ける風はそのままに、ストーブの火はすっかり勢いを弱めて燠に変わっていた。
 僅かに傾いた男の首が持ち上がる。目を醒ましたようだ。
 そのままゆっくりと立ち上がり、竿を引き上げる。釣り糸を垂らした時と変わらない姿がそこにはあった。
 糸が絡まないよう木片に巻き取って、まとめて壁に立て掛ける。
 返す足でストーブの空気穴を栓で塞ぐと手袋に灰が付いてしまうがそれを気にする様子はない。
 固まっていた体を一度大きく伸ばし、熱の残る部屋を後にする。
 胸の内に、今しがた確かに紡がれた魔法を抱えて。